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英文テクストを理解するストラテジー [英語教育]

こんな本があります

高校英語教育を変える和訳先渡し授業の試み

高校英語教育を変える和訳先渡し授業の試み

英語教育における文法訳読式の教授法に対する批判はもう何10年もなされてきているわけですが、それに取って代わってオーディオリンガル方式による習慣形成などが一時期流行したものの結局は有効な打開策とはならないママに現状でも多くの教育現場で文法訳読式の授業が行われているわけです。

このような現状を何とか改善しようと高知のSELhi(リンク先は文部科学省)での取り組みを紹介したのが本書であるわけですが、このような取り組み自体が、訳読そのものの弊害というものを無視し続けている点に筆者自身は危惧を覚えていることを言及しておきたいと思います(SELhi関連pdfはこちら)。

本来、言語というのは固有に生成されるものであって、その本人が発した発言なり書記なりメッセージというものは本人の固有の表現であるわけであり、それがコミュニケーションを目的としている以上、意思を伝達する以上のコトバというものをその表現形としては持ち得ていない、と言う原則について再確認をしておく必要があります。

すなわち、英語として生成された言語は英語としての認識によってはじめてその伝達が可能となることが前提なのであって、英語をその一般的な語義や語法に従って一言一句日本語にリプレイスしたところで、その持つメッセージ性は本来の言語とは異なったところにおかれることになってしまうことになるのです。

振り返ってみれば当然でありますが、翻訳通訳が目指すものはその相互理解の手段となるためのことであって、そもそもその言語での解釈をした上での理解でなくては、テクストの存在意義としては、全く意味をなさないものであると言っても過言ではないのです。だってそもそも話者や作者はその言語で理解されることを前提に発話しているのであってそれがゆめゆめひっくり返ったり元に戻ったり逆さまにこねくり回されたりしながら他言語に置き換えられるなどと言うことは想定外であるという、自明の論理があるからなのです。

しかしながら、そのこと自体は「翻訳」が不可能である、と言うことを意味するものではありません。言語理解とそれに伴った文化的背景(レアリア)を理解しつつ多言語に置き換えて、つまりパラフレーズを行いながらテクストの理解を行うことは、そのテクストについて理解をする上で、対象テクストが母語でない以上は必要な取り組みになってくると思うのです。

たとえば、単純にthinnkig in Englishが大事なんてやみくもに言う人がいますが、もちろん英語話者にとってはそれが当たり前のことなのでことさらに強調する必要すらないのですが、英語というコミュニケーションストラテジーを母語以外に習得しようと試みる我々日本人にとっては、その習慣を導入するためには初期において母語の介在が免れることはあり得ないのです。

高等レベルにおいても、専門的ジャーゴンを専門教育を受けたものが理解しようとする場合、単に英語辞典から英語定義を引き出してくることはそれなりに意味のある言語活動とはなりますが、たとえばgastric ulcerという語があったとして、英語辞典から「胃酸過多になって胃に穴が開いて云々」という定義を引き出してきて考えを巡らせるよりも、その病態そのものに理解を持つならば2言語辞典を用いて「胃潰瘍」という定義を引いた方が、理解が早くできる、と言う理屈も成り立ってくるわけです。そして胃潰瘍をいかに表現するかというリプロダクションの段階においてはじめて英語定義を理解できるか否か、という点から発話活動に結びつくことがあり得るわけ。

先日聞いた高2生の話ではないですが、「[does]がようやくわかりましたよ」という。それまでまるまる4年間やってきてこの成果ですよ。それはもはやthinking in Englishなどと悠長なことを言っている場合ではないということでもあるのです。

では、実際にどうしたらいいのか、ということになってしまうのですが、このような「和訳先渡し」の論理と、「和訳をテクスト理解に用いる」という論理では、似て非なるものである面を抱えていることを理解しておく必要があります。たとえば和訳を先行配布することは本当の意味においてテクスト理解を深めていることになっているのかを吟味しているのか、ということです。単なる一対一対応化を推進し増強する手段としては、このような試みは排除されなくてはならない。なぜならばそのものが英語力の(すなわち、理解すると言うこと、つまり、理解とは言語理解の上でテクストを理解し対象言語においてパラフレーズができてそれを表現できるかいなか、という点にまで及ぶ)向上という観点からは全く意味をなさないことになってしまうからです。

大学に入ったとき、高校の先生に頼まれて「合格体験記」を書いたことがありました。私としては当たり障りのないことを書いてお茶を濁したのでしたが、一緒に同期現役で大学に入ったある人の体験記には(高知大に入学されました。帯広三条から高知大というのは大変にめずらしく北海道新聞とかが取材にきてました。帯広三条から外語大も相当にめずらしかったのですが… 私のところにはきませんでしたね)「英語はコミュニケーションです。英語の勉強は日本語の勉強です。これがわかった人は合格します」なんてこと言っていました。ある面では正しいですね。今の教育を変えていこうとする立場から見れば、全面的には賛成しかねますがね。

ま、いずれにしろ評価項目に「英文和訳」もしくは「和文英訳」という作業があることは果たして本当の意味で英語力に関連している能力の妥当性を評価しているのか、ということについて、きちんと考え直しておく必要があるのです。英語テクストの理解度評価として日本語を生成する能力を求めることが妥当かどうかについても、検討する必要があります。そのための準備に和訳が費やされるのであるとしたら、これは大変な時間の浪費であるということができるかもしれないのです。

ま、そういう入学試験があってそういう入試に対応しなくてはならないという面から言ったらこういうことも言ってられないのですが… そういう入試を出題するような大学ではそんなつまらない英語を要求するような授業を行っているのかと思って受けないことが賢明なのかもしれないですが。ただし、理解がきちんとできているとするならば、そのような英文テクストを日本語でパラフレーズすることは可能だし、その内容について評価されるという面においては、異論を挟み得ませんが。

小学校から英語やろうとするような昨今の風潮(中高大ですらまともな英語教師がいないのに、どうやって小学生に英語を教えるんだ!? しかも小学校に英語を導入する内閣府の諮問委員会の座長は元外語大教授で現代中国論の権威である中嶋嶺雄先生。少なくとも英語教育の専門家ではない)、さらには実用主義いっぺんとうになってしまって本来の英文テクストや英語理解を深めないままに表面的な能力を要求するような、アドホック的な、小手先上の改善策の氾濫に、筆者は大変な危惧を感じます。

9/30追記: 新内閣の伊吹文相が英語必修化に疑問の声を発しました。内容については当方未検討ですが、安易な必修化よりは議論を尽くすべきであると解釈し、拙者としては支持をしたい考え方です。いずれ検証し論考いたします。


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